怒りっぽく、ぶっきらぼうな旦那が嫌になる時
「うちの旦那はとにかく声が大きくて…いつも怒鳴ってるみたいに聞こえるんです」
「夫は朝起きても私に挨拶もしません。『ありがとう』も言いません」
「言葉が悪くて、褒めてくれることがありません」
カウンセリングの中でよく聞く、妻たちからの声です。
本当は誠実で情に厚い性格なのに、妻の心に角を立ててしまうような言い方しかできなくて、不評を買ってしまう。
こうした夫婦のコミュニケーションの摩擦は、どこからくるのでしょうか?
原家庭でのコミュニケーションパターンを引きずる夫婦
夫と妻のコミュニケーションのパターンは、それぞれが育ってきた原家庭の家庭文化の中で培われ習慣化されたものです。
例えば男兄弟ばかりの中で育った男性は、結婚後も妻に対しても男同士のコミュニケーションを使ってしまいます。
呼ぶ時も「おい」「お前」と呼び、ぶっきらぼうで優しさに欠けます。
「ありがとう」「ごめんね」などの言葉はほとんど口にしません。
たとえ心の中では感謝したり、済まなく思っていたとしても、それを表現できないのです。
男兄弟のいない家庭で育った女性がこういう男性と結婚すると、体育会系のコミュニケーションに馴染めず、大切にされていないような気持ちがしてしまいます。
また厳格で挨拶や礼儀作法にうるさい家庭で育った女性が、作法にこだわらない自由奔放な家庭で育った男性と結婚すると、相手が不作法・無礼に見えて葛藤することがあります。
このように、その人の育ってきた家庭の風景である「家庭文化」が、結婚後もその人の生活基準として、一つの枠を形作っているのです。
円満な家庭を作るには、夫のコミュニケーションの癖を知り、その背後にある真意を汲み取ってあげることが大切です。
でも両者が育ってきた家庭文化のギャップが大きすぎる場合、相手を理解しようとする前に心を閉じてしまう場合が多いのです。
自分の家庭文化で相手を縛る妻
毎日決まった時間に食事をする家で育った妻は、夫や子供が決まった時間に食事をすることを望みます。
しかし、夫の原家庭がそうでなかった場合には、決まった時間に食事させようとする妻の行為自体が、窮屈なものに感じられます。
お腹が空いて何か間食しようと冷蔵庫を開けると、妻から怒られる。
間食は体に悪い、もう少ししたらバランスの取れた夕食が出来るのに、というのが妻の言い分です。
でも、夫としては食べたいときに食べたい。
ちょっと体に悪いものでも、食べたくなるときはある。
その欲求を過度に抑制されると、何だか規則に縛られている気がして、家にいてもリラックスできません。
こういう小さなことでも積み重なると、夫は妻の前で自由でいられなくなり、安心できる場所を求めて浮気や不倫に走ることもあります。
時代と共に変わる結婚の観念
昔から日本の女性は、結婚して「夫の家に入る」と、そこの家風を学び、家庭文化に従うようにと教えられてきました。
女性が全面的に歩み寄ることによって、家庭文化同士の摩擦を最小限にしていたのです。
代々伝わる夫の家の伝統と家風をしっかり相続する嫁が優秀な嫁であり、夫婦の関係以上に、そのことが評価されてきました。
ところが、西洋のインディビジュアリズム(個人主義)が入ってくるとともに、結婚は個人と個人の結合という観念が主流になってきました。
男女平等が叫ばれながら、女性が一方的に夫の家庭文化に合わせていく必要はない、という考えに変わってきたのです。
こうした風潮を悪いというわけではありませんが、社会がそのように変わるにつれて、離婚率が増加してきたのは、まぎれもない事実です。
夫も妻も、お互いに相手が自分の基準に合わせてくれることを期待していると、そうしてくれない相手に対して不満が湧いてくるものです。
必要なのは我慢ではなく対話
自由平等社会になった今、昔のように妻が夫の家庭文化に100パーセント合わせることを奨励するのはナンセンスと言えるでしょう。
夫婦が調和して暮らすためには、生活の中の小さな習慣に至るまで、ここまでは受け入れられるという妥協点を見つけていくことが大切です。
この線を越えたら、私は我慢できませんという境界線が誰にでもあります。
相手がその線を越えているのにも関わらず、我慢して放置していると、それが積み重なって、結果的に相手に対する不満が積もり、離婚に行き着きます。
そういった意味で、昔よりも夫婦間の真摯な話し合いが求められているのです。
結婚とは、それぞれ全く違った家庭文化の中で育った二人が、新しい家庭文化を創造していく出発点を意味です。
お互いに、相手の持つ家庭文化を理解と尊重の心で受け入れ、二人が満足する妥協点を見つけていく努力の連続が、結婚生活なのではないでしょうか。